城下町にありがちな細長い町の姿による命名で柳1丁目から5丁目まで一直線に延びる。
明治21年8月に、旧来の45カ町村が合併して新しい郡山町となる時、奈良県知事宛にていしゅつした合併願の中に「永正年中(1504〜21)柳町ヲ開キ、之ヲ四区ニ別チ壱丁目ヨリ四丁目ニ至ル」とあり、豊臣秀長郡山入城を遡ること70〜80年前のことになる。したがって「永正年中」とあるのは「天正年中」の誤りだと思われる。
天正13年(1585)郡山城主となった豊臣秀長は、極端なまでの城下町繁栄策をとったので、日を追って城下は賑わいを見せ、柳町などは最たるものであったらしい。
柳1丁目から4丁目までは「箱本十三町」にはいり、天正19年8月には地子が免除され、秀長の跡を継いだ秀保も、この保護政策を執った。
柳5丁目が内町に編入されたのは宝永年間(1704〜11)である。柳1丁目に保存されている資料によると、天正のころから、家持と借家の定めがあり、借家人が家持の株を買得したときは「顔替り料」「名替り料」などの名目で、銀子を町へ出し、町内の軒役(間口4間をもって1軒役とする)は1ツ名前で3軒役以上は持てないなど詳細な規定をつくっていた。1丁目以外の町でも同様の規定が作られていたと思われるが確証はない。
元和元年(1615)郡山城主となった水野勝成は、塩町にあった牢屋敷を柳3丁目に移し、牢屋番を内町13町が交替で勤めることに定め、後に牢屋敷を洞泉寺町に移している。
寛永16年(1639)姫路から郡山へ国替えになった本多政勝の時は城下町も急速に発展し、柳6丁目ができたのもこの頃。
松平信之の延宝8年(1680)12月15日の大火で、町家670軒余を焼失している。この大火の5年後の貞享2年(1685)9月19日、宇都宮から入部した本多忠平は、この大火を教訓として、町家は瓦葺き・塗り込め土蔵造りを奨励するとともに防火を厳重にするため、翌3年の秋に柳5丁目に火の見櫓を新設した。この時本町・堺町・今井町にも設けられ、本町と今井町のものは宝永4年(1707)以後廃止となっている。
元禄の大火の時、柳1丁目では居宅27軒、柳2丁目では居宅21軒、柳3丁目では居宅5軒が類焼している。
柳町は南大和に通じる高野街道への要衝に当たるので、柳4丁目と5丁目の境に柳町大門が設置され、厳重な警備体制を布いていた。
柳4丁目には高札場が設けられて、法度・掟書・禁制などを一般に知らせる高札が掲げられた。
安永5年(1776)12月晦日に、町内より火を出し、20軒が類焼し、藩より救米を受けた。天明4年(1784)には凶作続きで飢人が出たので、柳4丁目では2月9日に一人当たり米3升ずつ、12日に柳5丁目で11人、14日に8人、6丁目で6人がそれぞれ米3升を支給されている。天明6年には大雨洪水、7年にはいって4月中は雨続き、大風雨、雹さえ降るという悪天候で多大の損害があり、世上の不安が募った。5月になると各所で一揆が続発、5月13日には柳町に米騒動が起こり、米屋が打ち壊されている。
嘉永7年(1854)6月13日昼から15日の朝にかけての大地震で柳1丁目では住居1軒が倒壊、2丁目では会所をはじめ住居2軒、3丁目では会所と居宅14軒が倒壊して7人が死亡、4丁目では柳町大門と火の見櫓が倒れ、居宅6軒が倒壊して4人が死亡、5丁目では居宅9棟が倒壊して7人が死亡している。
明治維新後の行政所属は、9年12月25日から「大和国 第2大区 2小区」に属し、17年7月1日からは「添下郡 第22戸長役場」に属した。
明治21年4月の「町村制」によって、今井町・綿町などの45カ町村を以て翌年4月1日から郡山町となり、柳1丁目、柳2丁目などはそれぞれ大字となった。その時の戸数・人口は柳1丁目は22戸・101人、2丁目は27戸・127人、3丁目は38戸・155人、4丁目は36戸・192人、5丁目は48戸・300人、6丁目は43戸・310人であった。
【柳町大門】
柳町の通りは、南大和に通じる高野街道への要衝に当たるので、柳4丁目と5丁目の境に大門を設置して外来者などに注意を払い、厳重な警備体制を布いていた。
門は慶長年間(1596〜1615)に伏見の惣門を移築したと伝えられる。門の勤番は町民の責務で、大門附町割によって柳1丁目から5丁目までと、堺町・豆腐町・車町の町民が交替で勤番していた。
柳澤文庫蔵の寛政10年(1798)の柳町5丁目の「町割図」によると、大門の南側に橋があり、橋のたもとは土居で、ここに番所があり、2軒の髪結床がある。
番所には火の見櫓が併設されていて、材木町など17町の町民が交代で見張りすることになっていた。
番所から門まで塀があり、塀の外側は土居で門の東側は土居薮。土居と薮が堀をコの字に包んでいる。門の西側はL字型の塀と塀に接して竹矢来が5丁目のはずれまで続き、髪結床は門の入口両側にあった。
大門の西側堀端の竹矢来は柳4丁目の支配で、東側堀続きは柳5丁目支配とされていた。
大門のかたわらにあった道標は、今では花内屋の庭園に保存され、門外にあった牛馬杭には「牛馬口附のもの引きはなさす 往来のさわりになるべからず」の注意書きがあったという。
嘉永7年(1854)6月13日の昼から15日の朝にかけて、数回にわたっっておきた大地震で門は倒壊するが、その後再建されている。
門には、城主定紋入りの高張提灯が2張備え付けられ、春日祭礼、南都出火などの時はこれを立てさせた。
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