小堀遠州

江戸時代の茶人、造園、建築家(1578〜1647)。天正7年小堀新介を父として近江小堀郷(長浜市)に生まれる。初め作助、政一ともいう。(正一とも)
同18年10月豊臣秀吉に従って郡山城を訪れた千利休の指導を受け、秀吉の茶の湯給仕に出る。
古田織部にその才能を認められたこと、父新介が秀長の重臣という恵まれた環境も手伝って少年時代から一流の茶会に出入りした。寛永18年(1641)1月には伏見屋敷の茶会に片桐石州らを招き、正保2年(1645)8月には本多政勝が遠州を郡山城に招いている。
慶長9年(1604)父の遺領1万2000石余を継ぎ、同11年後陽成院御所の作事奉行を務めている。
また元和9年(1623)12月に伏見町奉行となっているがその前後には本来の職務のほかに将軍上洛の際の宿所の整備、また、御所御殿の新改築、造庭など京、大阪、江戸を東奔西走している。
その作風は「遠州好み」という名を残すほど優れた美意識を持つ。正保4年2月伏見奉行屋敷で没。大徳寺孤蓬庵に葬られる。