箱本制度

城下町を大別して内町と外町とに分けるが、内町というのは原則として外堀の内側にある地子(じし)免除の町をいい、古来からの慣習で「内町十三町」と呼んでいた。天正16年(1588)の「郡山惣町分日記」(春岳院文書)に、本町・魚塩町・堺町・柳町・今井町・綿町・藺町・奈良町・雑穀町・茶町・材木町・紺屋町・豆腐町・鍛冶屋町の14町があらわれている。このうち鍛冶屋町は本町の枝町であるから、あとの13町が城下町の基本となり「箱本十三町」のはじまりを示している。その後、枝町として鍛冶町・車町・新紺屋町などが成立し、この「内町十三町」も延宝年間(1673〜81)の頃で19町、享保(1716〜36)の頃では27町に発達している。
天正13年(1585)9月、豊臣秀長が郡山に入城してから、城下町の建設にとりかかり、商工業保護の政策として同業者を町に集め、営業上の独占権を認め、町々にそれぞれの特許状を与えて保護した。これが後の株仲間に発展していく。
こうした特権を主張する根拠となる文書を朱印箱に納め、封印をして一ヶ月交代で本町以下13町を持ちまわりする。当たった月の町が「箱本」となり、この朱印箱を町内の会所に置いて、表に長さ2尺の紺地木綿に白地で「箱本」と染め抜いた小旗を2間余りの竿に付けて立てる習わしであった。
それぞれの町には「年寄・月行事・丁代」の世話役がいて町の自治に当たったが、「箱本」になった町では、その町の年寄りが1ヶ月間、全責任をもって郡山町中全体の世話をする。重要な問題の時は、跡・先・当箱本の三者で処理することになっていた。
内町に対する外町というのは、外堀の外側にあることが原則で、すべて年貢地であった。町屋が発達して街道沿いや門外にはみだして周辺の村に入り込んだ外町が13町あって、これを「外町十三町」と呼んで「外箱本」として外町の自治に当たる風習もあった。
元和元年(1615)4月、大阪夏の陣に、大阪方は郡山城番筒井定慶を味方に引き入れようとしたが、定慶はこれを断ったので26日、大阪方は大野主馬・箸尾宮内らの率いる2千余人が暗峠(くらがりとうげ)越えで郡山に攻め入み、城下町を焼いた。しかし、箱本封印箱は、いち早く奈良の社家櫟本左近宅に預けられて無事だった。これを徳としてその後、箱本から正月・5月・9月に銭1貫文を贈る習わしとなっていたが、延宝8年(1680)12月15日の郡山町内の大火で古くから伝わった記録の大半を失ったので、初期のことは明らかではない。享保9年(1724)3月11日、京都の皇居守護を兼ねる大任の地であることを申し渡されて、甲府城から郡山城へ国替えの命を受けた柳澤吉里が郡山に入部する時、箱本から書き出した「享保九年四月郡山城下掟の分箱本より差出書付」や「甲辰年和州郡山御城御請取之節町方申送り」は、箱本の事項や町中全般のことを知る上で良好な史料である。
箱本に課せられた任務のうち、治安・消火・伝馬の3つだ最大の責務であった。町中の治安は、柳町・高田町・鍛冶町の大門の勤番と町中50余カ所の木戸支配で、防火・消火については柳町・堺町の火見櫓で火の見、火災の折りにはいつでも駆け出せる火消割とその費用の準備を怠らなかった。また、運輸・通信は人馬の力に頼っていた時代なので、藩の公用に伝馬役を出すというのが、箱本の基本的な姿であった。豊臣時代には13町から伝馬23頭を公用に供し、それが松平氏・本多氏・柳澤氏と受け継がれてきたが、柳澤氏の頃は60頭に増えた。さらにこの3大責務のほか、一般庄屋の取り扱う事務のような、藩からの伝達事項・課税の徴収・訴訟・株仲間の統制・宗旨改・南都祭礼の奉仕・高札場の管理・通行人の変死の処置など非常に多くの任務があった。各町が平等に町政に参与する仕組みで、世襲のような独裁的色彩の少ないのも郡山箱本の特色であった。