会ヶ峰村(かいがみねむら)

佐保川と初瀬川の合流地に北方にある村で、寛永16年(1639)から元禄13年(1700)までの間は、額田部村から分離して独立していたが、天保の頃もとに復している。『大和国郷帳』に「会ヶ嶺村 額田部ノ支郷 高十八石一斗 土屋甚助」とある。土屋甚助は旗本。
この会ヶ峰村の丘陵地に、筒井順慶が鉄砲の鋳造工場を設け、国中の寺から釣鐘を没収して鉄砲の材料にしたといわれる。『多聞院日記』天正8年(1580)3月17日の条に「ナラ(奈良)中ツリ(釣)鐘従筒井被取了、大門ニモ二ツ在之、今日取了、国中諸寺同前云々、クワイ(会)ヶ峯ニテタタラヲ立、テツハウ(鉄砲)ヲイ(鋳)サスルト云々」とある。また同日3三月18日の条に「郡山城ヲ破テ多聞山ヘ引クト云、クワイ(会)ヶ峯と云、二説ト云々」とあり、これは豊臣秀保の時代に、郡山城を多聞山か会ヶ峰に移そうとしている、という風説があったことを示している。