筒井順慶

順昭の子、天文18年に生まれる(1549〜1584)。母は大仏再興に功績のあった山田道安の妹。幼名は藤勝、藤政、のちに得度して陽舜坊順慶と称した。
京都の幕府の弱体化による政情不安で順慶も大きな影響を受けて松永久秀らに苦しめられていた。天正5年(1577)10月順慶は織田信長の援助を受けて久秀を信貴山城に滅ぼす。久秀が東大寺大仏殿を焼いた日から10年目の10月10日のことだった。
この後、間もなく信長から「大和国中一円存知」を許されて同年11月本貫の地筒井を捨てて郡山に入った。
順慶時代の郡山築城はどれほど進んだのかよく分かっていないが、信長の命令で明智光秀が工事の見回りに来ており、また、奈良中の大工を郡山に招集して多聞城の石を郡山に運んでいる。『多聞院日記』の天正8年4月22日の条に「筒井ニハ今日ヨリ天守俄ニ被上云々、世上大事ト存欺」とあり、天守閣が急造されたようだがこの場所もよく分かっていない。
城下町については筒井の商家を郡山に移し、毎月六斎市が立ち、塩や木綿、魚などは郡山で商われた。町名から見て本町筋の成立が最も早く、次いで塩町、魚町が町並みを作りはじめたのではないかとされている。
郡山入城後も順慶は信長や秀吉に従って各地に転戦するが、天正12年8月に死去。遺骸は一度は奈良の円証寺に葬られたがその年10月15日母尊栄の願により改めて葬儀が行われ、郡山長安寺に廟所が建てられた。今日残る五輪塔とその覆屋は重要文化財。


【筒井氏】
筒井氏の家系については従来さまざまな説があってあきらかではない。中世に多くあらわれてくる森屋神社(田原本町)を中心とした森屋党がいて、その中核になったのが森屋筒井である。
この森屋筒井が筒井氏の本家であり、相当古くから興福寺に出仕し、衆徒の役目を果たしていたとする説が有力。
この筒井氏が鎌倉時代を経て室町初期にようやく強大となる。初めの頃は微力であり、順慶もそうであったように法体となるので家系は一層不明確になった。
筒井氏で確認できる人物は筒井順覚が初見(『春日文書』)。至徳年間(1384〜87)から応永年間(1394〜1428)の末年にかけて活躍したことは『西大寺文書』によって裏付けられる。
この順覚は後年活躍する光宣や順永の父であることはその年齢からほぼ推定される。
筒井氏が衆徒となった時期は明らかではない。興福寺の勢力による統制が強いうちは歴史の表面に登場するのは容易ではなかったからである。鎌倉時代を通じて南都において寺中衆徒として、また筒井の地を根拠に勢力を養いつつ正平6年(1351)近隣の諸豪を併せ、小武士団を結成していった。
また、50年にわたる南北朝争乱の余波を受けて、一乗院・大乗院両門跡の抗争で支配権を弱めてゆく機会に民衆の力も高まり、興福寺の先兵として筒井氏は民衆の現地支配の立場を利用、勢力を伸ばしていった。
室町幕府は筒井氏を起用、衆徒の棟梁として興福寺を助け、南朝の余党を討たせようとしたため室町初期では南朝的な越智氏と北朝的な筒井氏の対抗となり、「永享大和の合戦」を引き起こす。
後には「河内畠山の争い」に巻き込まれ、あるときは没落したり、その変遷の中に大和戦国史が織りなされている。このような時期に筒井党発展の基礎を築いたのが順覚の子・順永だった。
順永の後は順尊が継ぐが、この頃は筒井城が焼かれ、東山山中に閉塞するという不振時代が続き、越智党が勢力を振るった。順尊に子がなく、39歳京都で死去するが嗣子の順興はわずか6歳だったため、叔父成身院順盛がこれを助けた。この順興から順昭、順慶へと続く。

【洞が峠(ほらがとうげ)】
両者を比べて自分に有利な方につこうとして形勢を見守ることを「洞が峠を決め込む」と言うがこの語源は順慶に由来する。
天正10年(1582)6月2日本能寺の変で織田信長を討った明智光秀は新政権樹立のため諸将に協力を求めたが拒否され、頼むは姻戚関係にある筒井順慶だけとなった。順慶は味方するようにみせかけて摂津、山城の境にある洞が峠に陣取り山崎合戦の戦況を見守り、明智光秀の敗色が濃くなって初めて秀吉方に味方した。このことから日和見(ひよりみ)主義を「洞が峠」とか「順慶流」というようになった。
しかし、『多聞院日記』『蓮成院記録』などの史料によれば、本能寺の変を聞いた順慶は洞が峠で日和見をしていたのではなく、郡山城で軍議を重ねた末、慎重論が大勢を占め、以後明智方からの再三再四の援軍催促にもかかわらず順慶は態度を明らかにせず、秀吉が毛利方と和睦し、その軍を東へ走らせているとの情報を受けて漸く意を決して秀吉に忠誠を誓った。秀吉が山崎で光秀を完敗させた後、順慶は秀吉の許へ行き、遅参を叱責されたが、からくも許され大和国を領有することができた。
このように順慶は洞が峠に出陣せず郡山城で日和見的な態度を取っていたというのが真相。
しかし『蓮成院記録』によれば、明智光秀が山崎八幡洞が峠に着陣し、ここでむなしく順慶の支援を待ったという記事があり、このことが混同されてこの話ができたのであろう。