郡山城

中世の郡山には、中殿(なかどん)・辰己殿(たつみどん)薬園殿・東殿・向井殿たちの土豪が土塁と堀で囲んだ「カキ上ゲ城」の館を西の方の丘陵上に構えていた。彼らは南北朝の抗争に続く筒井・越智の党争、河内畠山氏の争い、筒井順慶と松永久秀の争覇戦などに巻き込まれ、姿を消したり、郡山に定住した者もあった。
筒井城を本拠としていた筒井順慶が、織田信長の後援によって宿敵松永久秀を破って大和統一の業を成し遂げると、信長は一国一城の方針を確立、大和国では郡山一城を残して他の城郭は破却された。
天正8年(1580)11月、順慶は郡山城を与えられて12日に郡山城に入った。
順慶時代にどれほどの工事がなされたかは判然としないが、記録によると廃城になった奈良の多聞城の大石を郡山に運び、奈良中の大工を郡山に招集し、信長の命令で明智光秀が工事の見回りに来たり、天守閣を急造したことなどが記されている。
本格的な郡山城築城は、天正13年(1585)9月に豊臣秀長が入部して、100万石の居城にふさわしい城造りがなされようとしたことに始まる。紀州根来寺の大門を郡山に運んで城門とし、春日大社の水谷川から大石を切り出し、寺院の礎石・庭石・五輪塔・石地蔵などが持ち込まれて石垣に用いられた。天守台の野面積の石垣には平城京羅城門の礎石や各所から運んだ石地蔵・五輪石などが惜しげもなく積みこまれている。本丸・二の丸堀の石垣ができて、天守の材木を鬼取山から伐りだしている。その時に本丸・毘沙門郭・法院郭・麒麟郭・緑郭・玄武郭などの曲輪まではできたようである。
秀長の没後、養子秀保も完成に力を注いだが文禄4年(1595)に若くして亡くなり、郡山城へは増田長盛が20万石で入った。長盛は外堀の普請にかかり、秋篠川の流れを東にかえて佐保川へ落とし、もとの川跡を外堀に利用した。西は溜池を利用して連ね、北は窪地に沿う堀を巡らし、総延長50町13間で堀の内側に土居を設けた。
慶長5年(1600)9月、関ヶ原の戦いで長盛は西軍に味方して大阪を守ったが敗北。10月6日には徳川方の本多正信・籐堂高虎に郡山城を明け渡している。徳川方は郡山城を取り壊して伏見城へ運んだ。
廃城となった郡山城地は、代官大久保長安の預かりとなり、ついで伏見在住山口直友が与力36騎を従えて郡山城番に入った。
家康は由緒ある筒井家の断絶を惜しんで、山辺郡福住に隠れ住んでいた筒井定慶を召し出して1万石を与え、200石宛の寄騎36騎を付けて郡山城を預けた。
元和元年(1615)4月、大阪夏の陣おこり、大阪方から定慶に誘いがあったが、徳川方に恩義ありとして断ったため大阪方は26日に郡山に攻め込み、城下町を焼いた。定慶は城を棄てて福住に逃れ、5月10日に切腹して果てている。
戦後の論功で第3陣を承った松平忠明が戦功第一として大阪城を与えられ、水野勝成はこれに次ぐものとして郡山城を与えられた。廃城同然であっても、郡山が京都・大阪に近く、政治的にも軍事的にも枢要な地であるとして重臣水野氏を封じた。勝成は元和元年三州刈屋から3万石の加増があって6万石で入城した。当時の郡山城内は、田畑になり、勝成自身もしばらく洞泉寺に仮住まいし、後に三の丸に仮宅を構えるほどであった。
荒れていた石垣や堀の修築は、幕府直轄のもとに行われ、二の丸台所角櫓・本丸御殿・三の丸・家中屋敷などは勝成の手で普請されている。しかし、勝成の在城はわずか5年で、備後福山城へ10万石で移り、そのあとに松平忠明が12万200石余で大阪城より郡山へ入った。
忠明は、郡山入部とともに、二の丸屋形の造営にかかった。これが藩主の居所に定まり、鉄門・一庵丸門・桜門・西門など伏見城から移し、厳然たる近世郡山城の威容も整い、五軒屋敷の形が整ったのもこの頃。
忠明の在城は20年で寛永16年(1639)3月、播磨姫路城に移り、入れ替わって本多政勝が15万石で郡山に入った。実子八郎兵衛の分を加えると19万石になった。政勝は寛文11年(1671)1月晦日江戸で死去、跡目相続では郡山家中が2分して争った。結末は政勝の家督15万石のうち政長に9万石、政利に6万石という幕府の命が下って落着。これが「九六騒動」と呼ばれる。
延宝7年(1679)政長亡きあと、養子忠国は3万石の加増で本知15万石として奥州福島へ、政利は播州明石へ所替えとなった。
替わって入部した明石城主松平信之は8万石で入城。本多時代に比べて藩の勢力は小さく、武家屋敷百軒あまりを取り潰し、大破していた本丸屋形も取り払っている。
信之の在城は7年で貞享2年(1685)6月老中職に補せられ、9万石で下総古河に移封、かわって本多忠平が宇都宮から入部、12万石を領した。
忠常・忠直・忠村と継ぎ、忠烈がわずか7歳で継ぐことになった時、幕府は旧領のうちで新規に5万石の知行高を認めた。家中の半数に暇を出し、やっと本多家の名跡だけを相続していたが、翌享保8年(1723)11月27日忠烈8歳で死去し、本多家は断絶した。
享保9年、柳澤吉里が15万石を以て郡山城主に封ぜられ、8月13日に入城している。信鴻・保光・保泰・保興・保申と続き、明治維新まで147年間在城。
安政5年(1858)12月1日二の丸から出火して住居向きの建物はすべて焼失し、3年後の文久元年再建されたが、維新に遭遇して櫓・門・屋形などは明治6年3月20日入札によって売却され、落札者によって運び去られて何一つ残っていない。
すなわち、明治4年の廃藩置県の結果、全国各地にある城郭はすべて兵部省の所管となった。兵部省は同5年2月に陸軍省と海軍省に分かれ、陸軍省は各地にある城郭の存廃を決めて翌6年1月14日付の太政官達を下した。
「一月十四日達 陸軍省全国城郭及軍事ニ関渉スル地所建物、是迄其省管轄ノ処、今度別冊第一号ノ通、陸軍必要ノ分改テ管轄被仰付、其余第弐号ノ通旧来ノ城郭陣屋等被廃候条、附属ノ建物木石ニ至迄、総テ大蔵省ヘ可引渡事
一、右管轄ノ土地ヘ屯営建築落成ノ上、地所木石等有余ハ大蔵省ヘ可引渡、地所不足スレバ更ニ撰定シ大蔵省ヘ協議ノ上伺出候ハバ無代ニテ可相渡事」
これより先、明治4年8月に政府は軍制改革を実施して東京・大阪・鎮西(熊本)・東北(仙台)に本営を置く「四鎮台」を設置したが、翌5年1月9日に再び軍制改革が行われ、従来の「四鎮台」を東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本の「六鎮台」に改めた。郡山は大阪の第四軍管下に属し、この管下で存置と決まった城郭は、大阪・和歌山・二条・彦根・敦賀・津・姫路・鳥取・岡山・豊岡の諸城で、後に師団・聯隊あるいは県庁所在地になっている。こうして残された城が全国で58城、廃毀された城が144城、その時陣屋・要害なども一切廃毀され、大和の郡山・高取の2城と他の陣屋のすべても廃毀と決定。
明治6年3月、県令137号によって郡山城は3月20・21日に入札売却されたが、結果はあきらかでない。
昭和35年7月28日に本丸、毘沙門曲輪、法院郭、陣甫郭、玄武郭などが県指定文化財(史跡)となった。
北東隅の玄武郭に建つ総欅造二階建ての建物は、城の遺構のように見えるが、県立旧奈良図書館(明治41年竣工)を移したもので、現在は市民会館となっている。館前に蕉門十哲の一人森川許六の「菜の花の中に城あり郡山」の句碑が立つ。 昭和55年、築城400年を記念して追手門、東隅櫓、多聞櫓が復元された。また、柳澤文庫では柳澤家所蔵の書画、歴史資料が公開されている。
本丸跡には明治13年創立の柳澤吉保を祀る柳澤神社がある。拝殿入口の扁額は有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王の筆になるもの。境内は創立の頃に植えられた桜が多く、4月のお城まつりは花見客で賑わう。