天井村

『大和志』に「天井村又名弘法泉」とある。弘法井戸が残っており、この井戸にちなむ村名。添下郡京南の三条二里に当たり、周囲に約4町余の堀を持つ環濠集落で単純な土塁・薮の一部が残っている。環濠は長方形で東口の部分では堀が屈折し、他の口も街道から直接入らず迂回する。貫通する道路はなくて、遠くから見通せないようになっている。環濠の単純さは、この村に強力な土豪が存在しなかった証拠でもある。
『雑事記』に文明14年(1482)9月17日、越智方の郡山中殿のために村が焼き払われたことなどが書かれている。
慶長6年(1601)この地は小泉藩主片桐貞隆に与えられ、元和5年(1619)郡山城主水野勝成に移され、以後郡山藩領として明治に至っている。
郡山城下町の発展に伴い、街道沿いにできた柳6丁目は、天井村領に食い込んでいる。
明治21年4月の町村制施行に際して、筒井村・本庄村・杉村・丹後庄村とで新しい筒井村となっている。この時の天井村の戸数は18戸・人口129人であった。