稗田
『大乗院雑事記』の文明元年(1469)の条に「御室領稗田庄」とあって、稗田庄は京都右京区御室の仁和寺領荘園であったことがわかる。
興福寺大乗院方衆徒の奈良古市氏が荘官として支配を任され、米50石のうち20石を古市氏、残る30石を仁和寺へ上納していた。集落の東南部にある売太神社は、古市胤仙が館をかまえていたところに鎮座されたと推定され、庄は文明11年・同14年に筒井方によって焼かれている。