小泉城

小泉庄に地侍の小泉氏がいた。『額安寺文書』の貞和6年(839)3月に小泉出雲とみえるのが初見で、南北朝争乱の頃、すでに頭角を現していた。
大和永享の乱に、小泉氏は越智党に組みし、永享11年(1439)3月、畠山持国の軍によって小泉以下の越智党は熊野の奥に追いやられ、小泉の所領も欠所となっている。
その後、小泉重栄・今力丸などが繁栄を遂げていた。長禄3年(1459)に筒井順永が小泉城を攻めたので、重栄・今力丸は切腹し、順永は小泉城を破却するために、奈良中の郷民を動員したと記録される。そして小泉城の用材を筒井城に利用した。
その後、十市氏のはからいで筒井と小泉の和解が成り、小泉重裕が小泉を相続するが、越智党の衰退により完全に筒井党の傘下に入り、独自性を失う。
小泉の善福寺に「小泉庄城主宝岸院殿縁譽重順大信士位永禄四年辛酉年五月二十九日」の位牌と「小泉宝岸院殿」の墓と伝えられる五輪塔がある。また、安養寺にも「小泉城主宝岸院縁誉長順大居士 永禄四歳次辛酉五月二十九日」の墓石がある。
此の宝岸院殿とは小泉四郎左衛門重順のことで、壮烈な戦死を遂げたとする伝承が、小泉の各地に根強く伝わっている。
永禄4年(1561)2月26日、松永久秀は小泉城に向かって発向、激戦3カ月の末5月29日未刻、小泉城はついに陥ちた。この時18歳だった城主小泉四郎左衛門重順をはじめ市原正弘・丹後庄舜英房・竜田道春・小南政祐・目安祐弘など17人が切腹し、壮烈な最期を遂げた。家老の河本宗円・弟の宗左衛門は自害しているが、宗円の後は市場に定住し、片桐氏入部後は大庄屋を務めていた。
この戦いは、筒井順慶が信長に従い越前出陣中である時を見定めて、松永勢が小泉城に押し寄せた。その後、四郎左衛門の伯父長慶を小泉に連れ戻し、小泉を相続させた。この長慶の一子小泉四郎がのちに順慶の養子となり、伊賀守を受領した筒井定次であるといわれている。
今残っている薙刀池をはじめ、一連の外堀は、豊臣秀長に仕えた羽田長門守(4万石)が、この地に入った時造ったものといわれ、古い時代の小泉氏の館跡を拡大したものと思われる。
慶長6年(1601)に片桐且元の弟貞隆が小泉周辺を含めて1万5000石余を与えられて大名に列し、しばらく茨木城に本拠を置いていたが、知行地支配の関係上、陣屋構築にふさわしい小泉の地を選び、この地に住んでいた農民を街道筋に屋敷替えさせた。これが小泉町を形成するもととなった。
陣屋の地は、台地の先端部で、急崖の地であり、地形から考えて、その内郭は西側に屈曲があり、長辺150bの長方形の堀で囲まれ、東の崖下と西南の谷に堀池が残っている。陣屋をとりまいたこの内堀は、50年後の延宝元年(1673)に完成したといわれ、その費用は銀4貫目であったと『旧記』にある。このころになると陣屋としての景観も整ったようである。幕末の小泉城地復元地図によると、外堀・薙刀池・お庭池で陣屋は取り巻かれ、その中に家中屋敷があり、さらに内堀を巡らす藩主の居館があった。
北ノ町から大手道によって内に通じ、調練場も陣屋外につくられた。
陣屋と呼ばれるが、城郭としての構えを十分に備えた大規模なもので、城下町は東の富雄川沿いの南北の並びに北ノ町・中ノ町が、東西の並びに本町が整然とできあがり、今日の地割りにそのまま残っている。
大手門は、北ノ町の南端に突きだした形で開き、東西80bほどの区域が3回屈曲する桝形になっていた。ただし石垣構えでなく塀囲いであったようである。他に、北・西北・南の3カ所に門があり、門のひとつは現在小泉神社の山門として残っている。
門は冠木の上に切妻をつけて両方の門柱後方に控柱を設け、その控柱と扉とを雨露から守るため切妻の小屋根をつけた形式で冠木門と呼ばれるが通常高麗門といわれ、城郭では桝形の外方に用いられる門の形式とされている。小泉神社に残る門の遺構が移建前と大きく変わっていないものであれば、その扉は透門(すかしもん)の形式であり、外から内側を透かし見られる弱点があるから、内部を桝形型式もしくは通路を屈折させて遮断していたものと思われる。