筒井城

菅田比売神社を中心に、ほぼ筒井町集落を含んだ範囲が城跡と推定され、小字に、シロ・ドイ・ヤシキ・堀田などの関係地名が残っている。
永享元年(1429)7月に筒井の一族である井戸氏と豊田中坊の合戦から筒井氏・十市氏と箸尾氏が対立して「大和永享の乱」として国中に争乱が及んだが、筒井氏は常に幕府の後楯を得て、衆徒の棟梁としての地位を確立していたようである。特に筒井氏の地を根拠に在地勢力を養いつつ近隣の弱小諸豪を併せて、筒井党発展の基礎を築いたのが順永。『大乗院寺社雑事記』によると順永は長禄3年(1459)7月2日に奈良中の郷民を召し出して、小泉館の竹木を切り払わせて筒井城の柱に使用したという。また『大乗院日記目録』によると文明9年(1477)1月11日、畠山義就にこの筒井城を焼かれている。筒井党は東山山中に閉塞したが、順慶の時代になって松永久秀と激戦を繰り返し、元亀3年(1572)5月に多聞城を攻め、翌天正元年に12月に落とし、城を壊し始め、同7年8月1日には多聞城の石を奈良中の人夫に申し付けて筒井へ運ばせている。
天正5年(1577)8月、松永久秀は突然、信貴山城に立て籠もり、織田信長に反旗を翻した。信長は長子信忠を大将に、明智光秀・筒井順慶の諸軍をして信貴山城を攻めさせた。10月10日久秀父子は自害して信貴山城は陥ちた。
天正8年8月17日、織田信長は一国一城の方針から、大和国では郡山城のみを残し、他のすべての城郭は破却することになる。
筒井城は自衛のため、土塁を築き、堀をめぐらせた平城で、低湿地であり、近世的な縄張りには不適当であったので、これを壊すことに決め、順慶は郡山城を与えられて、11月19日には奈良中の人夫を筒井に集め、移転にとりかかった。
筒井城の跡は、一般農村となりながら筒井の集落全体を包む形で残った。
城跡としては、ところどころにある蓮池が濠の名残をとどめる。城跡も宅地開発が進んできて、昭和57年12月に県立橿原考古学研究所によって、幅4bで南北に2本の調査区を設定して発掘調査が行われた。結果としては溝、用途不明の落ち込みなどのほか、柱穴の底に平たい石塊を置いて礎石のように使用していたものが5カ所確認され、他の調査区から多数の柱跡らしい穴と直径4bの大きい井戸が検出された。
掘り出された遺物は若干の青磁・瓦質土器と大量の土師質小皿などであった。