古くは下治道天王社(和爾下神社)を中心とした宮郷の横田郷に含まれていたので、「若槻庄」は「東和爾中庄」とも呼ばれていた。平安末期か鎌倉初期にできた平野型荘園で、そのころは薬師寺別院の伝教院領と考えられ、後に興福寺大乗院領となっている。
庄の所在の条里が、添上郡京南二条一里・三条一里に当たり、それが現在の若槻町に相当する。
室町時代のはじめ、小泉の地侍である小泉氏の所領となった。長禄3年(1459)7月に、筒井順永が小泉館を襲い、小泉今力丸・同重栄を自殺に追いやり、その所領を奪って、若槻庄を成身院光宣(筒井陽舜坊)に与えている。
興福寺大乗院領となってからの荘官は奈良の古市氏・番条村の番条氏が当たり、名主職は番条氏・若槻氏・中城の吉岡氏に独占され、散村形態をとっていたが、村の周囲に濠をめぐらした環濠集落となったのは応仁・文明の争乱記と推定される。
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