額安寺

この地は621年聖徳太子が熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)を置いた旧地で、寺は大安寺の前身という。寺伝によると、推古天皇の額に悪性のできものができた時、薬師如来に祈って完治したのでそのお礼のため、この寺に薬師如来を安置し、額安寺と名付けたというが、額田部氏出身の道慈律師が寺院を建立、額田寺といった。道慈はそのころすでに新京の大安寺への移転を終わり、ここに隠退して入唐の際に学んだ求聞持法の主尊虚空菩薩像を安置して宗法の興隆に努めていたと思われる。伽藍並条里図に「額寺」又は「額田寺揚原」と記されたところがあって、現在の額安寺に合致するから、額安寺は天平宝字頃(757〜65)にはすでに存在し、寺域は東西三町南北二町を占め、金堂や三重塔をはじめ倉・食堂(じきどう)・僧坊などが建ち並んでいたものと考えられる。
平安時代になると次第に衰微し、一時は仏像の一部を興福寺に移されるほどだったという。鎌倉後期になると西大寺の叡尊・忍性・慈信などが寺の再興に尽力し、再び興隆した。
明応8年(1499)細川政元の命を受けた沢蔵軒宗益が大和国へ乱夕した際に他の寺院と共に焼き払われ、織田信長の検地当時に180石の寺領も没収され、豊臣秀吉の時に残っている雁塔を天王寺へ移すことを条件に1町歩を与えられた。これによって江戸時代を通じて額安寺は朱印地12石を許された。


【額田寺伽藍並条里図】
国宝。額田寺(額安寺)の伽藍とその寺領を表すために作成されたもので、縦110p、横98.9pの麻布に描かれている。建造物と寺領の境界は朱でかかれ、境界線には大和国印が押してある。図の中には中臣毛人家・同畠・巨勢古万呂家・同地・船墓などの記入がある。奈良時代の伽藍配位置を絵として残した例はほかになく、同時代の唯一の遺品としてきわめて貴重なもの。

【乾漆虚空蔵菩薩半跏像】
国の重要文化財。像高51.5p、木心乾漆の半跏像。額安寺開基の道慈律師の本尊であり、天平末期の手法を伝え、首飾・瓔珞(ようらく)などにも古法を窺うことができる。制作方法、荘厳具及び所伝からみても、天平彫刻の一形式と認められる。奈良時代末期の作と思われる『伽藍並条里図』には金堂右下に虚空蔵堂らしい堂が見え、おそらくここに安置されていたのではないかと考えられている。
弘安5年(1282)西大寺の興正菩薩が傷んでいる像を、仏師善春・絵師明澄に修補彩色させた。このことは台座に墨書されている。虚空蔵菩薩像としては、最古のものである。

【木造文殊菩薩騎獅像】
国の重要文化財。木造、彩色で像高31.8p。右手に剣、左手に経巻を持ち、獅子の背の蓮華座上に結跏趺坐(けっかふざ)する。一木造りで内刳りは施されていない。体に比して頭部がやや大きい。細く切れ長の眼、筋の通った鼻、小さな唇など面相は穏やかで整っている。衣紋は襞数が多く、かなり強く刻まれている。獅子の顔は鼻が小さく面相も穏やかで、犬のようである。藤原時代初期頃の作。

【石造五輪塔八基】
国の重要文化財。寺の北西にある石造五輪塔群で俗に『鎌倉墓』とも呼ばれる。指定を受けた八基の五輪塔は、敷地の西側に東面して5基、北側に南面して3基が鍵形に並ぶ。東端及び南から4番目のものに、永仁5年(1297)の銘があり、他のものは無銘であるが、同時期のものと思われる。中世の五輪塔がこれほど完全な形で残されているのは珍しい。
昭和57年の解体修理の際行われた地下調査によって、南端の忍性墓のみが建立当時の位置を保っていることが判明。忍性墓の骨蔵器などは、中世の高僧の墓制を知る上での貴重な発見となった。

【五輪塔納置品】
国の重要文化財。鎌倉墓の重要文化財五輪塔八基を解体修理した時、忍性の銅製骨蔵器・善願の骨蔵器など7点と付属品4点の計11点が出土。忍性の骨蔵器は宝瓶型の精巧な作りで胴部に長文銘記(嘉元元年「1303」栄真の撰)がある。また、善願の金銅骨蔵器にも一代の経歴を記した銘文が刻まれている。
出土した遺物は、いずれも中世金属工芸、墓制を研究する上で重要な資料である。

【宝篋印塔(ほうきょういんとう)】
市指定文化財。境内明星池に中島に建つ。文応元年(1260)の建立。総高283.3p、基礎東面各狭間に「文応元年10月15日願主永弘・大工大蔵安清」の刻銘がある。基礎上3段、塔身は輪郭を二重にとり月輪内に金剛界四仏の種字を薬研彫りしている。笠下3段、上6段笠隅飾りは軒口は連立せず、区別して直立、一弧無地。笠上は露盤、九輪宝珠とも欠損はない。各部の均衡がよく、荘重典雅な古塔で、鎌倉中期の様式の特色をよく表す。県下で2番目の古さ。願主永弘はどのような人か不詳だが、大工安清は大蔵派初期の石大工の一人と考えられている。寺の縁起では、慈真和尚が母のために造ったと伝える。
ほかに黒漆小龕(くろうるししょうがん)の骨蔵器も国の重要文化財。