観音寺付近がその故地といわれる。町内にある八幡神社の境内には観世音寺ゆかりの堂と思われる小さな観音堂が現存している。
『僧綱補任抄出』の天武2年(674)の条によると、この年に僧正になった智通は「唐学生、平城観世音寺此僧正建立」と記されており、また『続日本紀』天平10年(738)3月28日の条に「限五年施観世音寺食封一百戸」とあり、このころのこの寺が相当活動していたことがわかる。また当時この寺にも塔があったことが知られる(今昔物語集巻十一)。智通が持ち帰ったと思われる一切経目録や経巻などは珍重されたことが正倉院文書で知ることができる。なお智通は天武天皇のために矢田山に金剛山寺を建立したと伝えられている。
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